昨日、倉洞(チャンドン)で写真500点の回顧展が開いた。主役は昨年12月に亡くなっている。生涯、休暇地でアイスクリームを垂らす人たちを撮り、それで世界でもっとも有名な写真家になった。チケットは無料。
1.昨日7月16日、ソウル市立写真美術館で『マーティン・パー: We Are Martin Parr』が始まった。10月18日まで美術館の全館を使い、写真500点あまりと写真集90冊、14のシリーズで50年余りの仕事を辿る。
2.もうひとつ大事な数字がある。観覧料0ウォン。予約もいらないのでそのまま行けばよく、ドーセントは毎日11時・13時・17時に回る。火曜から金曜は10時から20時、週末は10時から19時、月曜休館。1号線・4号線の倉洞(チャンドン)駅1番出口から徒歩3分。

3.この展示の性格を決める事実がもうひとつある。マーティン・パーは昨年12月6日に亡くなった。享年73。2021年5月に骨髄腫の診断を受け、ブリストル(Bristol)の自宅で目を閉じた。彼の死後、アジアで初めて開かれる大規模な回顧展がこれにあたる。構成はMagnum PhotosとMartin Parr Foundationが一緒に組んだ。

4.韓国の観客に引っかかる部分は別にある。彼は1990年代末から2000年代初めにかけて韓国に来て、南も北も撮った。その仕事が今回並ぶ。彼がわたしたちを撮ったものを、いまわたしたちが見に行く。

5.まず彼が何をどう撮ったかから見る必要がある。技法がそのまま中身になる人だからだ。

6.機材の組み合わせが変わっている。マクロレンズでぐっと寄り、彩度の高いカラーフィルムにリングフラッシュを当てる。もともとは歯科や昆虫の撮影に使う道具。レンズをドーナツのように囲んで当たる光だから、影が落ちない。
7.影がないと何が起きるか。対象が背景から切り抜かれたように浮き上がり、ケチャップはより赤く、皮膚はより脂ぎって、アイスクリームはより粘つく。その場に立っていれば何でもない場面が、写真では標本箱にピンで留められた昆虫になる。
8.本人はこう整理している。「わたしは娯楽に偽装した真面目な写真をつくる」。この一文がすべて。まず笑わせ、笑ったあとでそれが自分だったと気づく。彼の写真の前で人が笑うべきか泣くべきかわからず、中途半端な顔になる理由。
9.「日常をユーモラスに捉えた」という説明はゆるすぎる。その程度で没後の回顧展に500点を見に来はしない。
10.写真の歴史のなかで、カメラは長いあいだ「あちら」を向いていた。戦争、飢饉、貧困、遠い国。写真家は危ないところへ行き、わたしたちに見えないものを咥えて帰る人だった。写真も白黒で、白黒は真面目さの制服。
11.マーティン・パーはカメラを回して「ここ」に向けた。海辺でフライドポテトを食べる家族、遺跡の前で同じポーズをとる観光客の列、ショッピングカート、パーティー、犬、ケーキ。誰も死なず、何も起こらない場面ばかり。

12.そのほうが痛い。戦争写真は見て悲しめばいい。自分はそこにいないのだから。マーティン・パーの写真には逃げ場がない。あの滑稽な人が去年の夏の自分で、自分も同じように並んで同じ角度で撮った。彼が突いた欠落は、わたしたちがわたしたちを見たことがない、ということ。
13.だから展示のタイトルが『We Are Martin Parr』になる。彼がマーティン・パーだという話ではなく、彼が撮った対象であるわたしたちがマーティン・パーだという話。観客に差し出す告発状であり、同時に招待状。
14.これが2026年に正確に届く。国じゅうが自分を演出して上げる時代に生き、旅行に行って写真を撮るのではなく、写真を撮るために旅行に行く。マーティン・パーはこの習性を40年前にフィルムで押さえていた。スマートフォンが出る20年前に先回りして撮ったインスタグラム。
15.これが最初から歓迎されたわけではない。来歴を辿ると、その抵抗が見えてくる。
16.彼は1970年から73年までマンチェスター・ポリテクニック(Manchester Polytechnic)で写真を学び、1975年にヘブデン・ブリッジ(Hebden Bridge)へ移って田舎のメソジスト礼拝堂を白黒で撮った。『Non-Conformists』シリーズ。ここまでは正統な記録写真家の履歴書。
17.1982年、彼がカラーに乗り換える。ジョエル・マイヤーウィッツ(Joel Meyerowitz)やウィリアム・エグルストン(William Eggleston)といったアメリカの写真家から受けた刺激だという。当時のヨーロッパの記録写真の陣営でカラーは広告と観光絵はがきの言語で、真面目な写真は白黒でやるものだった。カラーへ行くのは陣営を裏切ることだった。
18.その裏切りの最初の結果が『The Last Resort』(1983-85)。リバプールの対岸にある寂れた海水浴場ニューブライトン(New Brighton)で労働者階級の休暇客を撮った。ごみの横で食べ、コンクリートの上で日焼けし、子どもは泣き、アイスクリームは溶ける。評論家のゲリー・バジャー(Gerry Badger)がこの仕事に付けた言葉は「写真的表現の基本様式に起きた地殻変動」。

19.以後の仕事はカメラを上へ上げ続けた。『The Cost of Living』(1987-89)はサッチャー時代に豊かになった中産階級を、『Small World』(1987-94)は世界じゅうの団体観光を撮った。『Common Sense』(1995-99)は地球規模の消費を撮ったが、発表の仕方のほうが面白い。17か国41か所で同時に開幕した。

20.そしてマグナム。1988年に准会員、1994年に正会員になるが、票差はわずか1票。ベトナム戦争の写真集『Vietnam Inc.』で知られるフィリップ・ジョーンズ・グリフィス(Philip Jones Griffiths)が彼の入会に公然と反対した。戦争と正義を撮る組織に、海辺でフライドポテトを撮る人をなぜ入れるのか、という理屈。
21.その1票差でかろうじて入場した異端者が、2013年から2017年までマグナムの会長を務めた。世界最高の権威をもつ報道写真の組合が、自分たちが拒みかけた人に組織をまるごと預けた。戦争だけが深刻なのではなく、わたしたちの休暇の過ごし方も深刻だという方向へ、真面目さの定義が移っていった。
22.彼が残したものは写真だけではない。写真集を1,000冊以上集めた収集家であり、ゲリー・バジャーと『The Photobook: A History』を書いた。本だけを集めたのでもない。1950年代から70年代のジョン・ハインド(John Hinde)による野暮ったい英国の観光絵はがき、壁紙、サダム・フセイン(Saddam Hussein)の腕時計、公衆電話ボックスに貼られたカードまで集めた。他人がごみと呼ぶものばかり。大衆の趣味の考古学者。人が捨てたものを集めていたその仕事が、いまや資産になっている。『The Last Resort』の初版写真集は数百ポンドで取引され、マグナムを通したオリジナルプリントは1点数千ポンド台(推定)で売れる。2014年に設立されたマーティン・パー財団(2017年ブリストル開館)がこのアーカイブを守っており、今回の展示に写真集90冊が一緒に並ぶ理由もここにある。本は脇役ではなく本体。

23.彼を聖人にする必要はない。2020年、彼はジャン・ブットゥリーニ(Gian Butturini)の写真集『London』2018年再刊に関わった件で論争に巻き込まれた。特定の写真の配置が人種差別的だという批判が出て、彼はブリストル写真祭(Bristol Photo Festival)の芸術監督を退いた。他人の趣味を生涯観察した人が、最後まで見られなかったものがひとつ。自分の視線の死角。
24.最後にこの展示の構造。無料で予約もいらない。マーティン・パーは生涯、写真を美術館の外へ出そうとした人で、安い写真集や絵はがきやティータオルに自分の写真を刷って売った。そういう人の回顧展を価格0、摩擦0で開くのは予算の問題ではなく読解だ。ソウル市立美術館の分館なので運営はソウル市の予算で回り、この規模の回顧展一件の企画・運営・輸送費は通常、数億ウォン台(推定)。その費用を観覧料ではなく税金で受け取るのが公立美術館の勘定。代わりに払うのは倉洞という場所。都心の美術館ベルトから遠く、この展示は金ではなく距離で値を取る。

ソウル市立写真美術館は10月18日まで、全館にマーティン・パーの写真500点あまりと写真集90冊を掛けた。1990年代末の南北朝鮮の撮影分もその中にある。残る数字は観覧料0ウォン。代わりに倉洞という距離を値として受け取る。彼の話法を移そうとすると、順序で止まる。彼は被写体を手配も演出もせず、レンズにドーナツの照明をひとつ嵌めただけなのに、同じ人が標本になった。売上が出ないとき、メニューと家具を入れ替える前に色温度とスポットの角度から触ってみる順序を守る店は少ない。入口には笑いを置いて重さは奥へ押し込んだこと、他人がごみと呼んだ絵はがきと壁紙を捨てずにアーカイブになったことも、結局は同じ話。安い変数を全部使ってから高いものに手を付ける。
