8月25日、東京・麻布十番の商業ビル2階にうどん割烹が開いた。運営するのは、大阪で80年にわたり教科書をつくってきた出版社の子会社だ。夜10時までは1万円からのコースだけを出し、10時を過ぎると同じカウンターで1,300円のうどんを出す。
1.店名は、ぼけかす。運営会社HiRAKUは、大阪の教科書出版社・新興出版社啓林館が全額出資して設立した。啓林館の創業は1946年。小学校から高校までの数学・理科の教科書や参考書を出し、2024年9月期の売上高は148億円だった。開店のプレスリリースは食事を「人が集い、時間を分かち合う文化的な体験」と呼び、飲食業に踏み出した理由を説明している。

2.席はカウンター6席と完全個室5席。プレスリリースは14席としたが、店のサイトはこう案内しており、個室は詰めればもう一人入る。月・火・木・金は夕方5時から深夜3時まで、土曜は夜10時に閉め、水曜と日曜は休み。

3.公開された写真の部屋は黒い。床は濃い灰色のタイル、壁も黒く塗られ、その真ん中を明るい白木のカウンターが一本、長く横切る。カウンターの真上には同じ木で組んだ天井板が低く吊られ、客の頭上だけを照らす。奥の壁は緑の照明を仕込んだガラスパネル2枚が占め、その間の白い壁龕には黄色い花がひと束。
4.店が掲げる言葉は一客一亭。茶道で、亭主がただ一人の客のために茶を点てる席を指す。11席のカウンターなら、料理長一人がすべての客の器を一目で見渡せる。サイトのトップで切り替わる写真の一枚は、筋の入ったガラス越しににじむ花と、その下の黒い棚に収めたオーディオアンプを写している。トップの写真3枚のうち、料理の写真は1枚だけ。

5.コースは4種、税込1万円から1万6,500円まで。いちばん長い余韻コースは全8品で、九つの仕切りの箱に盛った先付、鮮魚3種、おでん、魚か牛肉から選ぶ主肴が順に出る。松阪牛と薩摩黒豚を出汁にくぐらせるコースは個室でのみ受ける。コースの最終受付は夜8時半。

6.4つのコースは、どれも最初と最後の椀が決まっている。最初は、ほどき出汁と呼ぶ食前の出汁。店はこれをぼけかすの神髄と呼び、香りを前に立てる。最後は大阪のかすうどん。牛の小腸をじっくり揚げて脂を抜いた油かすを、うどんにのせる。外はカリッと、中はぷるんとした油かすが出汁に沈みながら、脂と旨味を少しずつほどいていく。澄んだ出汁で始まり、脂の浮いた出汁で終わる一食。

7.店名は二つの言葉をつないだものだ。店の説明によれば「ぼけ」は気持ちをぼかして心に余白をつくること、「かす」はあの油かすの旨味。関西の人の耳には、「ぼけかす」は人をきつく罵る言葉にも聞こえる。一度聞けば忘れにくいその名を、教科書出版社の子会社が看板に掲げた。
8.夜10時になると品書きが変わる。おでんは一つ380円から。つまみにはうどん揚げのトリュフ塩、かすキムチ、かす焼きそばが並び、うどんはかすうどんが1,300円、そこにカレーとグリーンカレーが一品ずつ加わる。コースの最後の一椀が、この時間には品書きの真ん中に来る。おでん鍋から湯気が立ち、カレー出汁の香りがカウンターを満たすあいだ、酒の品書きには一合売りの日本酒と山崎・響が並ぶ。
9.麻布十番は、古い商店街の奥に大使館と高級住宅が建つ町だ。遅くまで開く店の多い六本木にも歩いて行ける。夕食をよそで済ませ、二軒目、三軒目を探す客が深夜1時に求めるのはコースではなく、熱い出汁の一杯。サイトの最初の言葉も「夜を整える」で、一日を締めくくるのにふさわしい場所だと自らを紹介している。


10.店はかすうどんを「大阪名物」として掲げる。東京の客には馴染みの薄い料理なので、コースの最後に一杯を先に味わってもらい、夜はその一杯だけを目当てに再訪させる仕組みだ。初回の客単価はコースが押し上げ、再訪の足は1,300円のうどんがつくる。HiRAKUも、今後かすうどん専門店を国内外に出すと明らかにしている。
11.サービス料は時間帯で変わる。夜10時までは料金の10%、10時以降と土曜は15%で、個室料は一人1,000円を別に取る。1万6,500円のコースを個室で食べると、酒を除いても1万9,150円になる。遅く来るほどうどんは安いが、サービス料率は上がる。
12.売上は公表されていないので、品書きの価格から概算する。コースの時間帯は、コース平均1万3,000円に酒5,000円、サービス料を加えて一人2万円ほど(推定)。コースの最終受付が8時半なので11席は一晩一回転とみて、席の7割が埋まればこの時間帯の売上は15万円ほど(推定)。夜10時以降は、うどんとつまみ、酒二杯ほどで一人5,000円前後。5時間で12人が座れば6万円(推定)。
13.月・火・木・金を月17日、土曜を4日と数えると、月の売上は380万円前後(推定)。年間でおよそ4,600万円、親会社の売上の0.3%にとどまり、この一店で出版社の損益が動くことはない。その代わり、人件費が重い。日本の労働基準法は夜10時から朝5時までの労働に25%以上の割増を求めるが、店がサービス料を15%に上げるのも夜10時だ。深夜3時に閉めて片付けを終えるまで、スタッフは一晩に5時間以上を割増賃金で働く(推定)。
14.食材で目を引くのは、うどんにのる油かすだ。日本経済新聞は2020年の記事で、油かすは小腸10kgを揚げると1kgしか残らず、100gで500円を超えて牛肉より高くなったと伝えた。一杯に30gのせれば、油かす代だけで150円を超える(推定)。麺と出汁を足すと、1,300円のうどんの原価率は20%台後半まで上がる(推定)。

15.油かすがつくられ始めたのは明治の中頃、埴生村(現在の羽曳野市)に大阪府有数のと畜場が開かれてからだ。牛の腸からせっけんの材料になる脂を取った残りを、地元の人が保存食として食べてきた。これをのせたうどんを看板にした最初の店は、1995年に藤井寺で開いたKASUYA(加寿屋)。捨てられていた副産物が30年で町のうどんになり、いまは麻布十番で1万6,500円のコースの最後の一椀として出てくる。

16.大阪の教科書出版社の子会社が、東京・麻布十番の11席の店で、夜はコースを、10時からは1,300円のうどんを出す。同じ席を一晩に二度売るが、二人目の客は一人目のおよそ4分の1しか使わない(推定)。韓国で同じやり方で明け方まで開けると、まず膨らむのは人件費だ。韓国の勤労基準法は夜10時から朝6時までの労働に50%の加算を求め、除外されるのは常時5人未満の事業場だけ。従業員が5人になった瞬間、深夜にうどんを出す人の時給は1.5倍になる。
